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8月, 2025の投稿を表示しています

ゴミ拾いトングのデザインから学んだこと

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夏といえば海を思い浮かべます。多くの人が訪れ、にぎやかに過ごした後には、美しい景色と同時にゴミが残されることもあります。 私は、こうしたゴミ拾い活動に使うトングをデザインしたことがあります。きっかけは2010年頃、三条商工会議所が主催する講演会に講師として招かれた際に、永塚製作所の能勢専務(現・社長)と出会ったことでした。 永塚製作所は、火バサミや火おこし、十能、移植小手といった金属製の生活道具を製造する工場です。専務は異業種から入社して3年目でしたが、コミュニケーション能力が高く、業界外にも幅広い人脈を持っていました。話をするうちに、彼が関わる「ゴミ拾いを中心としたコミュニティ」の存在を知り、その活動の延長としてゴミ拾い用のトングの開発に取り組むことになったのです。 完成したトングは、従来の火バサミを少し改良して、先端にシリコンゴムの部品を加えたシンプルなものでした。私自身、グリーンバードの清掃活動に参加した際、軍手で火バサミが滑りやすかったり、先端が通行人に当たりそうで不安を感じた経験がありました。その実感をもとに改良を加え、試作を重ね、保持力を数値化して検証しました。金属加工を専門とする工場では異素材を扱うことが少ないため、シリコンゴムの成型を行う工場を紹介するなど、新しい連携も生まれました。 2012年には、この「ゴミ拾いトング」がグッドデザイン賞でBEST100に選定され、さらに「ものづくりデザイン賞」を受賞しました。火を扱う道具であった火バサミを環境活動の道具として再設計した点、そしてコミュニティとのつながりを意識した開発姿勢が評価されたのです。この年の授賞式ではステージ上でプレゼンテーションやパネルディスカッションに参加する機会もあり、貴重な体験となりました。 永塚製作所にとっても、この受賞は特別な出来事でした。地元のテレビ局が取材に訪れ、専務からは「社員が自宅で、子どもに“お母さんの会社テレビに映っていたよ”と言われた」とか、「配達の人が、社名入りの車で河原でサボっていられなくなった」といった声があったと聞きました。デザイナーに依頼した初めての案件で、商品が売れるということ以外にも、社員や地域に誇りを感じてもらえる効果があったのだと思います。 私自身も、この経験を通じて「デザインは売れる・売れないとは違う価値を提供できる」...

シアトルのように

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人口規模で見れば、新潟市とシアトルは大きく変わりません。シアトルといえば、ボーイングやマイクロソフト、アマゾンといった企業が生まれた街。産業が街を育て、インフラや文化の厚みをつくってきた都市のイメージがあります。 新潟市も、新しい駅が完成して少しずつ変わってきました。駅ビルには県内各地の名産を集めた「ぽんしゅ館」や、新潟伊勢丹の「越品」などがあり、地域の魅力を束ねる場になっています。その一角「クラフトマンシップ」では、FD STYLEの製品も揃っています。 もしここからLRTが整備され、駅から真っ直ぐ南へ伸びていったらどうでしょう。途中でビッグスワンに寄り、亀田イオンを経由して工業団地まで。車両は新潟トランシスやJR新津車両製作所で製造されたものなら、まさに「地元で走る地元製」の交通です。想像するだけで少し楽しくなります。 新潟市の場合、発展する駅周辺に対して旧市街地をどうするか、という議論に力点が置かれすぎているように感じます。むしろ、発展の可能性が高いエリアに資本を集中させた方が街としては面白くなるのではないでしょうか。拠点性を高める中で、結果として旧市街地の新しい展開も生まれてくるように思います。 さらに新潟市には新潟大学があり、周辺から若い人が集まっています。卒業後もそのまま起業したり、働き続けたりしたくなる街になれば、都市の魅力はもっと広がるはずです。 新潟は金沢のように観光で人を集める都市とは違うと思います。むしろ、産業や暮らしを基盤にしながら、新しい都市像を描ける街。そんな未来を思い浮かべると、シアトルのように「新しい産業と文化を起こせる都市」として未来を語れるのではないかと感じます。 そして個人的には、工業デザイナーとして 駅や車両、都市インフラのデザインに関わり、若い人が定着したくなる街づくりに参加できれば嬉しいと思います。暮らしの道具だけでなく、都市そのものを形づくる一部に関われたら、それはとても面白い仕事になるでしょう。

長く使える鉄フライパンをどうつくったか

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黒 いキッチンツールの次に 黒いキッチンツールを発表したあと、「次は何を?」という声をいただくようになりました。私自身も、暮らしに欠かせない道具の中で「永く使えるもの」を改めて考えてみたいと思いました。そこで取り組んだのが鉄フライパンです。 フッ素加工への疑問 展示などで黒いキッチンツールを紹介すると、よく「フッ素加工は剥がれませんか?」と質問されました。多くの人が経験しているのは、フッ素加工が高温で劣化し、焦げつきやすくなる現象です。それを「剥がれる」と理解している人が多いのだと気づきました。実際、フッ素加工は260度以上で劣化すると言われています。 つまり「買い替えが当たり前」とされている背景には、素材そのものの性質や使い方の誤解もあるわけです。この点は、日々使う道具をどう選ぶかを考える上で重要だと感じました。 工場探しと加工技術 こうした疑問や不満に対して、より長く使える道具を提案したいと考え、私は「鉄フライパン」のデザインに取り組みました。 最初に相談に行ったのは燕市の鉄鍋メーカーです。しかし担当者は「窒化は試したことがあるが簡単ではない」と話しました。鉄フライパンを作るだけなら工場はいくつもありますが、サビに強い窒化処理まで踏み込むと難しい課題が残りました。 その後、プリンス工業を通じて紹介された金属表面処理の技術を持つ工場で、鉄板を窒化処理し酸化被膜をつける加工が可能になりました。こうして、ただの鉄フライパンではなく、長く使えるものに近づいていきました。 木柄の工夫 仕上げとして、取手にはステンレスと竹を組み合わせました。フライパンの木柄といえばホワイトアッシュなど洋材が一般的ですが、日本製を強調するなら何がふさわしいかと考え、竹を選びました。竹べらが水に強く長持ちすることを、日々の料理で実感していたことも後押しになりました。 形状はシンプルな棒状ですが、断面は角を丸めた四角です。丸棒の方が加工は容易で、多くのフライパンがそうなっています。けれど私は、調理した中身を皿に移す動作に着目しました。フライパンを少し傾けやすいように、この形にしたのです。 こうして完成した鉄フライパンは「窒化と酸化皮膜」を施した独自のもので、「OXYNIT加工」と名付けました。ただし、FD STYLEでは商品ごとに個別の名称をつけず、あく...

海外評価が後押ししたブランドの必然

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私が黒いキッチンツールのシリーズに取り組んだのは、2008年のことでした。新潟県の「百年物語」というプログラムに参加し、新しいアイテムを加えながらキッチンツールを「黒」に仕上げる試みを始めました。百年物語のテーマは「男性向け」とされていましたが、私自身はそこに強い関心を持ったわけではありません。むしろ当時、燕のメーカーが黒と朱に塗装した洋食器を発表し、ニューヨークのMOMAのコレクションに選ばれたことが大きなきっかけでした。 「ステンレスに塗装する」という発想は珍しく、果たして実用に耐えるのかどうか、自分でも試してみたいと思いました。複数の塗装工場を回り、「艶消しの黒」をテーマにいくつかの加工を試しました。最終的に選んだのは、最もコストのかかるフッ素加工でした。 理由は明快で、耐久性に優れていたからです。もし塗装が剥がれて食材に混じったら、それ自体がNGです。実際に日常の食卓で使う道具だからこそ、安全でなければ意味がありません。試作の中で、フッ素加工が最も剥離や摩耗に強く、安心して使えると判断しました。 Wallpaper誌への掲載 2009年、完成した黒いキッチンツールをドイツ・フランクフルトの展示会で発表しました。すると、英国のデザイン誌 Wallpaper がこのシリーズを紙面に取り上げてくれました。私にとっては思いがけない出来事でした。 さらに翌年、Wallpaper Design Awards 2010 にノミネートされ、最終的に受賞することになります。驚いたのは、自分から応募したわけではなかったことです。ある日突然、ロンドンから雑誌と書類が送られてきて、初めて事態を知りました。 誌面を開くと、AlessiやBoffiといった世界的ブランド、そして当時はまだ無名だったnendoの作品と並んで掲載されていました。地方の小さな工場と協働してつくった日常の道具が、国際的なブランドやデザイナーと同じ紙面に紹介されている――その事実に強い衝撃を受けました。 海外と国内での評価の違い Wallpaper誌に掲載されたことで、海外からの問い合わせや反応が少しずつ増えていきました。後にはBottega Venetaに紹介されたり、NHKの海外向け放送で取り上げてもらうこともありました。2017年以降は実際にパリや香港の展示会に参加し、直...

地方(新潟)で工業デザイナーを続けられた理由 Vol.3

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第3話:地域との関わりとFD STYLEへの道(1990年代後半〜2000年代) 背景 フリーランスとして活動を始めた私は、製品デザインを受託する一方で、燕三条地域の工場や人とのつながりを広げていきました。 そんな中で大きな影響を受けたのが、新潟青年会議所への参加でした。青年会議所は40歳までの異業種の集まりで、私が入会した当時は体育会系の雰囲気が強く、早々にやめようと考えたこともありました。しかし我慢して参加するうちに、異業種交流から生まれる学びの多さに引かれていきました。 異業種交流から得た学び 例えば「墨壺」のデザインを依頼されたときのこと。誰がどのように使うのかを知りたくて、建設会社に勤める青年会議所メンバーに相談しました。すると現場担当者に直接意見を聞く場を設けてくれました。クライアントに伝えると「ゼネコンの話を直接聞ける機会はない」と喜ばれ、一緒に参加することになりました。 さらに後日、今度はその建設会社から「自分たちは商社のようなもので、採用している設備や道具がどう作られているのか見せて欲しい」と頼まれ、私が担当していた換気口メーカーを案内しました。双方から感謝され、「橋渡し」という役割の大切さを実感しました。 地方では地域内のつながりが重要で、SNSがない時代でも人となりは自然と伝わっていくのだと感じました。青年会議所では理事を5年間務め、行政と共通点のある組織運営にも触れることができました。 新潟市の特徴と課題 同年代の経営者と交流する中で「新潟には外へ発信できる魅力が少ないのではないか」という課題を意識するようになりました。 新潟市は「日本海側最大の都市」で人口規模も大きいのですが、特徴といえば「雪・米・酒」くらいだとよく言われます。 私自身の考えでは、新潟市は県庁所在地の中で唯一お城がなかった街で、政治の拠点として発展したわけではなく、北前船によって港町として育った街です。そうした歴史的背景が、市民の意識にも影響しているのではないかと感じました。 また、村上茶や燕三条の金物、佐渡の民藝、小千谷や十日町の織物、五泉や見附のニットなど、県内の魅力的な「モノやコト」が新潟市で手に入る場所はほとんどありませんでした。観光都市・金沢との対照は印象的でした。 「伝える人」の存在 ある時、酒蔵の友人から「萩野さん...

地方(新潟)で工業デザイナーを続けられた理由 Vol.2

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Vol.2 フリーランスの始まりとMacintoshとの出会い 背景 1991年6月20日、私は企画会社を退職しました。特に準備をしていたわけではなく、無計画に辞めてしまった形でした。 当時は携帯電話も普及しておらず、実家の電話が唯一の連絡手段でした。退職して2日後、その電話が鳴ります。相手は、以前に数回デザインを担当したことがある三条市のプラスチック収納メーカーの社長でした。 フリーランスのきっかけ 社長は「会社に電話したら君が辞めたというから、自宅の番号を聞き出した」と言い、「一度会社に来て欲しい」と伝えてきました。 訪問すると、まずは入社の誘いを受けましたが、私は断りました。すると社長は次のように提案してくれました。 「年間150万円でデザイン業務を受けるというデザイン会社があるのだが、同じ条件でどうか? デザイナーとして活動するのに生活が不安定では良い仕事はできないだろう。だから同様の契約を4〜5件持てばよい。」 当時の私は契約に関する知識が全くなく、その場では「考えさせて欲しい」と答えて帰りました。 助言と決断 相談できる人がいなかった私は、卒業した短大を訪ね、たまたま居合わせた非常勤の村上先生に相談しました。先生は東京でデザイン事務所(ヒューマンファクター株式会社)を経営されていました。 費用の妥当性を気にする私に、村上先生はこう言いました。 「私からすれば何の実績もない君に契約してデザインを任せようという人がいること自体が不思議だ。 費用のことは気にしなくていい。やりたければやればいいし、やりたくなければ断ればいい。」 この言葉に背中を押される形で、私は「やらせてください」と社長に伝えました。 その時、社長は「経営者としての考え」をいろいろと語ってくださり、最後には契約金額を180万円に上げてくれました。私は「金額は一方的に提示されるものではなく、互いにすり合わせるものだ」ということを、この時初めて学びました。 事務所とMacintosh こうして私はフリーランスデザイナーとして動き始めました。 実家には小さなスペースがあり、DIYで事務所にしました。まだコンピューターが一般的でない時代で、製図は友人から譲り受けたドラフターを使っていました。元手は車を買い替えた時に残った120万円ほどでした。 その後、東京の...

地方(新潟)で工業デザイナーを続けられた理由 Vol.1

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私は1986年に社会人としての歩みを始めました。振り返れば40年近くデザインに関わり、地方・新潟という土地で活動してきた中で、多くの出会いと学びがありました。 今回のブログでは、これまでの歩みを改めて整理し、3回に分けてご紹介します。 第1話は「就職と最初の転職」、第2話は「フリーランスの始まり」、そして第3話では「地域との関わりとFD STYLEへ至る道」を振り返ります。 Vol.1「就職と最初の転職」 背景 私が社会人になったのは1986年、日本が「バブル景気」に沸いていた時代です。 地方の公立短大のデザイン科プロダクトコースにも大手家電メーカーから求人があり、実際に先輩たちがそうした企業に就職していました。 私は当初、玩具メーカーに入ろうかと就職活動をしていました。しかし東京に行くたびに乗る満員電車にはどうしても耐えられそうにないと感じ、「いずれは新潟に戻って生活するのだろう」と考え、新潟の家具メーカーに就職しました。 体験談 入社した会社は「新潟は日本の6大木工産地」と言われていた中でも最大規模の企業でした。 製造工場を2か所に持ち、小売を中心とした本社は県内だけでなく横浜にも店舗があり、家具販売に加えライフスタイルショップや遊園地の経営も手がけていました。卸部門は全国3位の規模だったと記憶しています。 私は4月に入社し、11月までの7か月間在籍しました。給与以外の待遇は恵まれていたと思いますが、夏に大きな出来事がありました。 当時、会社には契約していた外部デザイナーがいて、皆から「小川先生」と呼ばれていました。ある日、その先生が秋の展示会に向けた製品開発の会議に出席され、私も進めていた企画を見てもらうことになりました。 デザイン案を見せた際、「この工場で作れるのか?」と尋ねられ、私は「自社工場では一部できませんが協力工場で可能です」と答えました。すると、いきなり平手打ちを受けたのです。会議室は一瞬で緊張に包まれました。 その後も評価の場で再び平手打ちを受け、終わった後に上司からは「よく我慢した」と声をかけられました。 この時の私は「インハウスのデザイナーは外部のデザイン事務所より立場が低いのだ」と受け取りました。都会のデザイン事務所に対して、地方の工場にはどうすることもできない力の差があるのだと。外注で加工できるので...