地方(新潟)で工業デザイナーを続けられた理由 Vol.3
第3話:地域との関わりとFD STYLEへの道(1990年代後半〜2000年代)
背景
フリーランスとして活動を始めた私は、製品デザインを受託する一方で、燕三条地域の工場や人とのつながりを広げていきました。 そんな中で大きな影響を受けたのが、新潟青年会議所への参加でした。青年会議所は40歳までの異業種の集まりで、私が入会した当時は体育会系の雰囲気が強く、早々にやめようと考えたこともありました。しかし我慢して参加するうちに、異業種交流から生まれる学びの多さに引かれていきました。
異業種交流から得た学び
例えば「墨壺」のデザインを依頼されたときのこと。誰がどのように使うのかを知りたくて、建設会社に勤める青年会議所メンバーに相談しました。すると現場担当者に直接意見を聞く場を設けてくれました。クライアントに伝えると「ゼネコンの話を直接聞ける機会はない」と喜ばれ、一緒に参加することになりました。 さらに後日、今度はその建設会社から「自分たちは商社のようなもので、採用している設備や道具がどう作られているのか見せて欲しい」と頼まれ、私が担当していた換気口メーカーを案内しました。双方から感謝され、「橋渡し」という役割の大切さを実感しました。 地方では地域内のつながりが重要で、SNSがない時代でも人となりは自然と伝わっていくのだと感じました。青年会議所では理事を5年間務め、行政と共通点のある組織運営にも触れることができました。
新潟市の特徴と課題
同年代の経営者と交流する中で「新潟には外へ発信できる魅力が少ないのではないか」という課題を意識するようになりました。 新潟市は「日本海側最大の都市」で人口規模も大きいのですが、特徴といえば「雪・米・酒」くらいだとよく言われます。 私自身の考えでは、新潟市は県庁所在地の中で唯一お城がなかった街で、政治の拠点として発展したわけではなく、北前船によって港町として育った街です。そうした歴史的背景が、市民の意識にも影響しているのではないかと感じました。 また、村上茶や燕三条の金物、佐渡の民藝、小千谷や十日町の織物、五泉や見附のニットなど、県内の魅力的な「モノやコト」が新潟市で手に入る場所はほとんどありませんでした。観光都市・金沢との対照は印象的でした。
「伝える人」の存在
ある時、酒蔵の友人から「萩野さんのデザインした商品はどこで買えるの?」と聞かれたことがあります。当時の私は流通に関して知識がなく、「工場から産地問屋、東京の問屋を経由して売場へ」という仕組みが当たり前だと思っていました。 しかしその友人は「自分たちは酒1本でもお客様から注文があれば近くの販売店を紹介するか届ける」と言いました。この言葉から、「米や酒が全国に知られているのは、伝える人が機能しているからだ」と気づかされました。プロダクトデザイナーとして、自分にも「伝える役割」が必要なのではないかと考えるようになりました。
FD STYLE への道
ちょうどその頃、新潟県の取り組み「百年物語」に参加しました。展示会で製品を出展した際、工場の社長から「産地問屋との付き合いがあるので、流通開発は難しい」と相談を受けました。当時はメーカーが産地問屋を超えて商品を流通させることが大きな問題となる時代でした。 私が出展したのは、以前デザインして入賞した製品を「百年物語」に合わせてリデザインしたものでした。具体的にはステンレスを黒く加工したのです。当時、ステンレス製品は「無塗装」が鉄に対する優位性とされており、黒く仕上げるという発想は一般的ではありませんでした。しかしその挑戦が評価され、工場との信頼関係や「流通を自ら担う」という意識につながり、のちの FD STYLE へと発展していきました。
学び・まとめ
この頃から時代は急速にグローバル化し、大手小売店も海外から商品を直接調達できるようになりました。地場産業の工場も自らマーケティングを行う必要に迫られ、私たちはその先端で挑戦することになりました。 異業種交流、新潟市の課題意識、そして「伝える人」の役割への気づき。そうした積み重ねが、地域とともに歩むブランドづくりへと結びついていきました。
背景
フリーランスとして活動を始めた私は、製品デザインを受託する一方で、燕三条地域の工場や人とのつながりを広げていきました。 そんな中で大きな影響を受けたのが、新潟青年会議所への参加でした。青年会議所は40歳までの異業種の集まりで、私が入会した当時は体育会系の雰囲気が強く、早々にやめようと考えたこともありました。しかし我慢して参加するうちに、異業種交流から生まれる学びの多さに引かれていきました。
異業種交流から得た学び
例えば「墨壺」のデザインを依頼されたときのこと。誰がどのように使うのかを知りたくて、建設会社に勤める青年会議所メンバーに相談しました。すると現場担当者に直接意見を聞く場を設けてくれました。クライアントに伝えると「ゼネコンの話を直接聞ける機会はない」と喜ばれ、一緒に参加することになりました。 さらに後日、今度はその建設会社から「自分たちは商社のようなもので、採用している設備や道具がどう作られているのか見せて欲しい」と頼まれ、私が担当していた換気口メーカーを案内しました。双方から感謝され、「橋渡し」という役割の大切さを実感しました。 地方では地域内のつながりが重要で、SNSがない時代でも人となりは自然と伝わっていくのだと感じました。青年会議所では理事を5年間務め、行政と共通点のある組織運営にも触れることができました。
新潟市の特徴と課題
同年代の経営者と交流する中で「新潟には外へ発信できる魅力が少ないのではないか」という課題を意識するようになりました。 新潟市は「日本海側最大の都市」で人口規模も大きいのですが、特徴といえば「雪・米・酒」くらいだとよく言われます。 私自身の考えでは、新潟市は県庁所在地の中で唯一お城がなかった街で、政治の拠点として発展したわけではなく、北前船によって港町として育った街です。そうした歴史的背景が、市民の意識にも影響しているのではないかと感じました。 また、村上茶や燕三条の金物、佐渡の民藝、小千谷や十日町の織物、五泉や見附のニットなど、県内の魅力的な「モノやコト」が新潟市で手に入る場所はほとんどありませんでした。観光都市・金沢との対照は印象的でした。
「伝える人」の存在
ある時、酒蔵の友人から「萩野さんのデザインした商品はどこで買えるの?」と聞かれたことがあります。当時の私は流通に関して知識がなく、「工場から産地問屋、東京の問屋を経由して売場へ」という仕組みが当たり前だと思っていました。 しかしその友人は「自分たちは酒1本でもお客様から注文があれば近くの販売店を紹介するか届ける」と言いました。この言葉から、「米や酒が全国に知られているのは、伝える人が機能しているからだ」と気づかされました。プロダクトデザイナーとして、自分にも「伝える役割」が必要なのではないかと考えるようになりました。
FD STYLE への道
ちょうどその頃、新潟県の取り組み「百年物語」に参加しました。展示会で製品を出展した際、工場の社長から「産地問屋との付き合いがあるので、流通開発は難しい」と相談を受けました。当時はメーカーが産地問屋を超えて商品を流通させることが大きな問題となる時代でした。 私が出展したのは、以前デザインして入賞した製品を「百年物語」に合わせてリデザインしたものでした。具体的にはステンレスを黒く加工したのです。当時、ステンレス製品は「無塗装」が鉄に対する優位性とされており、黒く仕上げるという発想は一般的ではありませんでした。しかしその挑戦が評価され、工場との信頼関係や「流通を自ら担う」という意識につながり、のちの FD STYLE へと発展していきました。
学び・まとめ
この頃から時代は急速にグローバル化し、大手小売店も海外から商品を直接調達できるようになりました。地場産業の工場も自らマーケティングを行う必要に迫られ、私たちはその先端で挑戦することになりました。 異業種交流、新潟市の課題意識、そして「伝える人」の役割への気づき。そうした積み重ねが、地域とともに歩むブランドづくりへと結びついていきました。

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