地方(新潟)で工業デザイナーを続けられたわけ

最近ブログ更新がみませんが工業デザイナーとして60歳を迎えることができました。人生の節目にあたり色々振り返ってみます。

私が社会人になったのは1986年、日本が「バブル景気」に沸いていた頃でした。地方の公立短大デザイン科のプロダクトコースにも大手家電メーカーから求人があり、先輩たちもそうして就職していきました。私自身も玩具メーカーに入りたいと考えて就活をしていましたが、どうにも馴染めませんでした。グループ面接で「3歳の時、両親に手を引かれて訪れた玩具店で初めて手にしたのが御社のおもちゃでした」といった嘘っぽい志望理由を語る人を目の当たりにして、こんな就活は自分には向いていないと感じたのです。東京に出るたびに満員電車の息苦しさもあり、「ここで働く自分」は想像できませんでした。どうせ将来は新潟に戻るのだろうと考え、新潟の家具メーカーに就職することにしました。

その会社では「新潟は日本の六大木工産地のひとつ」と言われていました。他の産地と比べて特別大きいわけではありませんが、新潟産地の中では最も規模の大きな会社でした。製造部門の工場が二か所あり、小売部門は新潟県内だけでなく横浜にも店舗を持ち、家具販売に加えてライフスタイルショップも展開。卸部門や遊園地経営まで手がける多角的な会社でした。今思えば給与以外は待遇も良かったと思いますが、私はわずか7か月で退職しました。

理由のひとつは、社外のデザイナーとのやりとりで感じたことです。夏の暑い日に、秋の展示会に向けた開発品を評価してもらう会議がありました。末席に座っていた私もデザイン案を見てもらいましたが、「このデザインはこの工場で作れるのか?」と問われ、「自社では一部加工できませんが、協力工場なら可能です」と答えたところ、いきなり平手打ちを受けました。当時は体罰が珍しくなかった時代でしたので驚きはしましたが、異常だとは思いませんでした。ただ、その瞬間に強く感じたのは「インハウスデザイナーは、外部のデザイナーよりも立場が低いのだ」という現実でした。社内の手続きを踏んで進めているにもかかわらず、外部の声ひとつで簡単に覆されてしまう。その理不尽さに納得できず、社内のデザイナーが守られない組織に自分の将来は見えませんでした。

その思いがきっかけとなり、新潟市内の企画会社へ転職しました。社員は20人ほどで、広告や印刷物が中心でしたが、三条市の分室ではプロダクトデザインも行っていました。ここで燕三条のものづくりと出会うことになります。4年半ほど勤め、1991年6月20日に退職してフリーランスデザイナーとなりました。

当時、実家の一角をDIYで改装して小さな事務所を構えました。まだコンピューターは一般的ではなく、友人から譲り受けたドラフター(製図機)で作業をしていました。やがて「これからはMacintoshの時代だ」と勧められ、70万円のローンを組んでMacintosh SEを購入。白黒9インチの画面、Adobe Illustratorはバージョン1.1でした。新潟ではほとんど仕事に結びつきませんでしたが、このMacが不思議な縁を運んできてくれました。住宅メーカーの訪問先で「おっ、Macを使っているのか」と声をかけられ、その縁からCanon関係の開発にデザイナーとして参加することにつながったのです。

フリーランスになった当時の不安は今もよく覚えています。 それまで小・中・高専、短大、そして社会人になってからの2社、常に「〇〇の萩野光宣です」と所属先を名乗れたのに、独立した今はどこにも所属していない。肩書を持たないことへの漠然とした不安がありました。

「何者かになりたい」ともがきながら、気がつけば33年が経ちました。

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