地方(新潟)で工業デザイナーを続けられた理由 Vol.1
私は1986年に社会人としての歩みを始めました。振り返れば40年近くデザインに関わり、地方・新潟という土地で活動してきた中で、多くの出会いと学びがありました。
今回のブログでは、これまでの歩みを改めて整理し、3回に分けてご紹介します。
第1話は「就職と最初の転職」、第2話は「フリーランスの始まり」、そして第3話では「地域との関わりとFD STYLEへ至る道」を振り返ります。
Vol.1「就職と最初の転職」
背景
私が社会人になったのは1986年、日本が「バブル景気」に沸いていた時代です。 地方の公立短大のデザイン科プロダクトコースにも大手家電メーカーから求人があり、実際に先輩たちがそうした企業に就職していました。
私は当初、玩具メーカーに入ろうかと就職活動をしていました。しかし東京に行くたびに乗る満員電車にはどうしても耐えられそうにないと感じ、「いずれは新潟に戻って生活するのだろう」と考え、新潟の家具メーカーに就職しました。
体験談
入社した会社は「新潟は日本の6大木工産地」と言われていた中でも最大規模の企業でした。 製造工場を2か所に持ち、小売を中心とした本社は県内だけでなく横浜にも店舗があり、家具販売に加えライフスタイルショップや遊園地の経営も手がけていました。卸部門は全国3位の規模だったと記憶しています。
私は4月に入社し、11月までの7か月間在籍しました。給与以外の待遇は恵まれていたと思いますが、夏に大きな出来事がありました。
当時、会社には契約していた外部デザイナーがいて、皆から「小川先生」と呼ばれていました。ある日、その先生が秋の展示会に向けた製品開発の会議に出席され、私も進めていた企画を見てもらうことになりました。
デザイン案を見せた際、「この工場で作れるのか?」と尋ねられ、私は「自社工場では一部できませんが協力工場で可能です」と答えました。すると、いきなり平手打ちを受けたのです。会議室は一瞬で緊張に包まれました。
その後も評価の場で再び平手打ちを受け、終わった後に上司からは「よく我慢した」と声をかけられました。
この時の私は「インハウスのデザイナーは外部のデザイン事務所より立場が低いのだ」と受け取りました。都会のデザイン事務所に対して、地方の工場にはどうすることもできない力の差があるのだと。外注で加工できるので進めて良いと部内で確認していたにもかかわらず、その判断さえ通じない状況に、地方でデザインをする現実を突きつけられた気がしました。
転職へ
学生時代から「デザイン事務所で働きたい」という思いもあり、最終的に新聞広告で見つけた新潟市内の企画会社に転職しました。
その会社は20名ほどのスタッフで、社長は大日本印刷出身。広告や印刷物が中心でしたが、三条市に分室を持ち、プロダクトデザインを担当していました。入社後すぐ「天ぷら鍋」のデザインを任され、4日後にはプレゼンを経験しました。次々と案件に取り組み、4年半勤めたのち、1991年6月20日に退職しました。
まとめ
こうして最初の就職から転職、そして独立へのきっかけを得るまでの5年間は、社会人としての基礎を学んだ時期でした。都会と地方、外部と内部、その立場の違いを肌で感じつつも、燕三条のものづくりに出会ったことが、後のキャリアを形づくっていきます。
👉 次回は、無計画に会社を辞めてしまった私が、どのようにしてフリーランスのデザイナーとして活動を始めたのかをお話しします。
Vol.1「就職と最初の転職」
背景
私が社会人になったのは1986年、日本が「バブル景気」に沸いていた時代です。 地方の公立短大のデザイン科プロダクトコースにも大手家電メーカーから求人があり、実際に先輩たちがそうした企業に就職していました。
私は当初、玩具メーカーに入ろうかと就職活動をしていました。しかし東京に行くたびに乗る満員電車にはどうしても耐えられそうにないと感じ、「いずれは新潟に戻って生活するのだろう」と考え、新潟の家具メーカーに就職しました。
体験談
入社した会社は「新潟は日本の6大木工産地」と言われていた中でも最大規模の企業でした。 製造工場を2か所に持ち、小売を中心とした本社は県内だけでなく横浜にも店舗があり、家具販売に加えライフスタイルショップや遊園地の経営も手がけていました。卸部門は全国3位の規模だったと記憶しています。
私は4月に入社し、11月までの7か月間在籍しました。給与以外の待遇は恵まれていたと思いますが、夏に大きな出来事がありました。
当時、会社には契約していた外部デザイナーがいて、皆から「小川先生」と呼ばれていました。ある日、その先生が秋の展示会に向けた製品開発の会議に出席され、私も進めていた企画を見てもらうことになりました。
デザイン案を見せた際、「この工場で作れるのか?」と尋ねられ、私は「自社工場では一部できませんが協力工場で可能です」と答えました。すると、いきなり平手打ちを受けたのです。会議室は一瞬で緊張に包まれました。
その後も評価の場で再び平手打ちを受け、終わった後に上司からは「よく我慢した」と声をかけられました。
この時の私は「インハウスのデザイナーは外部のデザイン事務所より立場が低いのだ」と受け取りました。都会のデザイン事務所に対して、地方の工場にはどうすることもできない力の差があるのだと。外注で加工できるので進めて良いと部内で確認していたにもかかわらず、その判断さえ通じない状況に、地方でデザインをする現実を突きつけられた気がしました。
転職へ
学生時代から「デザイン事務所で働きたい」という思いもあり、最終的に新聞広告で見つけた新潟市内の企画会社に転職しました。
その会社は20名ほどのスタッフで、社長は大日本印刷出身。広告や印刷物が中心でしたが、三条市に分室を持ち、プロダクトデザインを担当していました。入社後すぐ「天ぷら鍋」のデザインを任され、4日後にはプレゼンを経験しました。次々と案件に取り組み、4年半勤めたのち、1991年6月20日に退職しました。
まとめ
こうして最初の就職から転職、そして独立へのきっかけを得るまでの5年間は、社会人としての基礎を学んだ時期でした。都会と地方、外部と内部、その立場の違いを肌で感じつつも、燕三条のものづくりに出会ったことが、後のキャリアを形づくっていきます。
👉 次回は、無計画に会社を辞めてしまった私が、どのようにしてフリーランスのデザイナーとして活動を始めたのかをお話しします。
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