地方(新潟)で工業デザイナーを続けられた理由 Vol.2
Vol.2 フリーランスの始まりとMacintoshとの出会い
背景
1991年6月20日、私は企画会社を退職しました。特に準備をしていたわけではなく、無計画に辞めてしまった形でした。 当時は携帯電話も普及しておらず、実家の電話が唯一の連絡手段でした。退職して2日後、その電話が鳴ります。相手は、以前に数回デザインを担当したことがある三条市のプラスチック収納メーカーの社長でした。
フリーランスのきっかけ
社長は「会社に電話したら君が辞めたというから、自宅の番号を聞き出した」と言い、「一度会社に来て欲しい」と伝えてきました。 訪問すると、まずは入社の誘いを受けましたが、私は断りました。すると社長は次のように提案してくれました。 「年間150万円でデザイン業務を受けるというデザイン会社があるのだが、同じ条件でどうか? デザイナーとして活動するのに生活が不安定では良い仕事はできないだろう。だから同様の契約を4〜5件持てばよい。」 当時の私は契約に関する知識が全くなく、その場では「考えさせて欲しい」と答えて帰りました。
助言と決断
相談できる人がいなかった私は、卒業した短大を訪ね、たまたま居合わせた非常勤の村上先生に相談しました。先生は東京でデザイン事務所(ヒューマンファクター株式会社)を経営されていました。 費用の妥当性を気にする私に、村上先生はこう言いました。 「私からすれば何の実績もない君に契約してデザインを任せようという人がいること自体が不思議だ。 費用のことは気にしなくていい。やりたければやればいいし、やりたくなければ断ればいい。」 この言葉に背中を押される形で、私は「やらせてください」と社長に伝えました。 その時、社長は「経営者としての考え」をいろいろと語ってくださり、最後には契約金額を180万円に上げてくれました。私は「金額は一方的に提示されるものではなく、互いにすり合わせるものだ」ということを、この時初めて学びました。
事務所とMacintosh
こうして私はフリーランスデザイナーとして動き始めました。 実家には小さなスペースがあり、DIYで事務所にしました。まだコンピューターが一般的でない時代で、製図は友人から譲り受けたドラフターを使っていました。元手は車を買い替えた時に残った120万円ほどでした。 その後、東京の友人に「これからのデザインはMacintoshだ」と勧められ、70万円のローンを組んでMacintosh SEを購入しました。白黒9インチの画面で、Adobe Illustratorはバージョン1.1。インターネットもなく、当時の新潟ではMacを持っていても仕事には直結しませんでしたが、結果的には大きな転機をもたらしました。
偶然の出会い
ある時、住宅展示場を訪れていた際に営業担当者に誘われ、入居済みのお宅を見学しました。そこでMacintoshのキーボードを見かけ、「マックを使っているのですね」と話しかけると、そこから話が進み「週明けに会社に来てください」と招かれました。 その会社は新潟駅前にあったCANON系列のソフトウェア開発会社でした。依頼は「プリンターサーバーの外装ケースを作れないか」というものでした。当時、多くのプリンターはPCと直接ケーブルで接続しており、LANにつなぐための周辺機器が必要とされていました。 私は経験がないながらも引き受けました。回路や基板は松之山のリュウド社が担当し、私はプラスチックの外装ケースをデザインしました。リュウドはMacintosh用のコプロセッサを開発していたベンチャー企業で、ここからMac関連の製品開発に関わる機会が増えていきました。
学び・気づき
この頃から「変化の速さ」を強く感じるようになりました。良い製品でも3年後には使われなくなることが普通にある。プラスチック、チタン、マグネシウムなどさまざまな素材を使い、デザインから製造まで関わる中で、製造拠点も新潟から台湾へと広がっていきました。 フリーランスの駆け出しだった私が大手製品のハウジングケースを任されたのは、燕三条の地場産業とのつながりを並行して築いていたことが背景にありました。
まとめ
独立当初は無計画でしたが、社長の提案、先生の助言、そしてMacintoshとの出会いが重なり、フリーランスとしての道が開けました。偶然のつながりや小さな出会いが次の展開を生み出すことを、この時期に強く学んだのだと思います。
👉 第3話では、青年会議所での経験や新潟市の課題意識を通じて「伝える人」の役割に気づき、やがて FD STYLE へとつながっていく流れを振り返ります。
背景
1991年6月20日、私は企画会社を退職しました。特に準備をしていたわけではなく、無計画に辞めてしまった形でした。 当時は携帯電話も普及しておらず、実家の電話が唯一の連絡手段でした。退職して2日後、その電話が鳴ります。相手は、以前に数回デザインを担当したことがある三条市のプラスチック収納メーカーの社長でした。
フリーランスのきっかけ
社長は「会社に電話したら君が辞めたというから、自宅の番号を聞き出した」と言い、「一度会社に来て欲しい」と伝えてきました。 訪問すると、まずは入社の誘いを受けましたが、私は断りました。すると社長は次のように提案してくれました。 「年間150万円でデザイン業務を受けるというデザイン会社があるのだが、同じ条件でどうか? デザイナーとして活動するのに生活が不安定では良い仕事はできないだろう。だから同様の契約を4〜5件持てばよい。」 当時の私は契約に関する知識が全くなく、その場では「考えさせて欲しい」と答えて帰りました。
助言と決断
相談できる人がいなかった私は、卒業した短大を訪ね、たまたま居合わせた非常勤の村上先生に相談しました。先生は東京でデザイン事務所(ヒューマンファクター株式会社)を経営されていました。 費用の妥当性を気にする私に、村上先生はこう言いました。 「私からすれば何の実績もない君に契約してデザインを任せようという人がいること自体が不思議だ。 費用のことは気にしなくていい。やりたければやればいいし、やりたくなければ断ればいい。」 この言葉に背中を押される形で、私は「やらせてください」と社長に伝えました。 その時、社長は「経営者としての考え」をいろいろと語ってくださり、最後には契約金額を180万円に上げてくれました。私は「金額は一方的に提示されるものではなく、互いにすり合わせるものだ」ということを、この時初めて学びました。
事務所とMacintosh
こうして私はフリーランスデザイナーとして動き始めました。 実家には小さなスペースがあり、DIYで事務所にしました。まだコンピューターが一般的でない時代で、製図は友人から譲り受けたドラフターを使っていました。元手は車を買い替えた時に残った120万円ほどでした。 その後、東京の友人に「これからのデザインはMacintoshだ」と勧められ、70万円のローンを組んでMacintosh SEを購入しました。白黒9インチの画面で、Adobe Illustratorはバージョン1.1。インターネットもなく、当時の新潟ではMacを持っていても仕事には直結しませんでしたが、結果的には大きな転機をもたらしました。
偶然の出会い
ある時、住宅展示場を訪れていた際に営業担当者に誘われ、入居済みのお宅を見学しました。そこでMacintoshのキーボードを見かけ、「マックを使っているのですね」と話しかけると、そこから話が進み「週明けに会社に来てください」と招かれました。 その会社は新潟駅前にあったCANON系列のソフトウェア開発会社でした。依頼は「プリンターサーバーの外装ケースを作れないか」というものでした。当時、多くのプリンターはPCと直接ケーブルで接続しており、LANにつなぐための周辺機器が必要とされていました。 私は経験がないながらも引き受けました。回路や基板は松之山のリュウド社が担当し、私はプラスチックの外装ケースをデザインしました。リュウドはMacintosh用のコプロセッサを開発していたベンチャー企業で、ここからMac関連の製品開発に関わる機会が増えていきました。
学び・気づき
この頃から「変化の速さ」を強く感じるようになりました。良い製品でも3年後には使われなくなることが普通にある。プラスチック、チタン、マグネシウムなどさまざまな素材を使い、デザインから製造まで関わる中で、製造拠点も新潟から台湾へと広がっていきました。 フリーランスの駆け出しだった私が大手製品のハウジングケースを任されたのは、燕三条の地場産業とのつながりを並行して築いていたことが背景にありました。
まとめ
独立当初は無計画でしたが、社長の提案、先生の助言、そしてMacintoshとの出会いが重なり、フリーランスとしての道が開けました。偶然のつながりや小さな出会いが次の展開を生み出すことを、この時期に強く学んだのだと思います。
👉 第3話では、青年会議所での経験や新潟市の課題意識を通じて「伝える人」の役割に気づき、やがて FD STYLE へとつながっていく流れを振り返ります。

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